トリビア#017「ポールさん、の話。」
みなさん、お盆ですね。いかがお過ごしでしょうか。
お盆と言えば、避暑地。避暑地と言えば、山梨県は清里を思い出します。
実は、清里はアメフトと大変ゆかりのある地なのです。
この清里には、1938年に設立された「清泉寮(セイセンリョウ)」と呼ばれる、
元々はキリスト教普及のための青少年リーダー訓練キャンプ場を目的とした
施設があります。
太平洋戦争の戦禍を受け、この清泉寮は封鎖を余儀なくされていたのですが、
アメリカ人のポール・ラッシュ博士の努力により見事復興しました。
そして何を隠そう、このポール・ラッシュ博士こそ、
「日本フットボールの父」と呼ばれる人その人なのです。
時を遡ること1925年、ポールさんは、
関東大震災直後にキリスト教青年会(いわゆるYMCA)を創るために来日し、
立教大学で若者教育の教鞭を執ることになりました。
そして1934年、
ポールさんは立教大学に日本で初めてとなるアメフト部を創立したのです。
その後、明治・早稲田大学と大学にアメフト部の創立が続き、
アメフトは日本でも人気の大学スポーツになったのですが、
やはり太平洋戦争により、アメリカのスポーツであるアメフトは活動禁止に
ならざるを得なくなりました。
そんな歴史をたどりますが、
終戦後3年たった1948年にポールさんは日本にもう一度来日し、
第一回ライスボウル(アメフト日本一を決める大会)の始球式に登場することになったのです。
敵国スポーツとして排除された時代を経て、なお、アメフトへの愛情を消さなかった日本人達が、ポールさんをそのようなステージに立たせたのですね。
そしてその後、ポールさんは東京を離れ、米が取れない山間部である山梨県清里村に、学校建設や牧場運営など、さまざまなアイデアと実行によって経済・文化・教育の基盤を作りました。そして、今は知られる清里を人気な避暑地として確立していったのです。
ひょっとすると、
ポールさんのアメフト普及や清里の開発を通じた日本への献身的な活動は、
日本人が敗戦から立ち直る尊厳と自立を芽生えさせてくれたかもしれません。
またね。素人ヤマダ